大河ドラマゆかりの現在の鏡沼跡 ほとりに設置された芭蕉・曽良像
鎌倉時代の悲恋物語が言い伝えられる鏡石町かげ沼の町指定文化財「鏡沼跡」が、好評放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ゆかりの地として注目を集めている。
鎌倉幕府を開いた源頼朝死後に実権を握った北条氏に対して謀反を企てたとして、「十三人の合議制」を構成する一人である和田義盛の子(義直・義重)と甥の和田平太胤長(たねなが)が捕縛された。
義盛の嘆願で義直・義重の2人は釈放されたが、胤長は首謀者として許されず、建保元年(1213年)旧暦3月に岩瀬の地に流刑され、同年5月に死刑となった。
胤長の妻天留(てる)は夫に会いたい一心で当時の女性としては過酷な奥州への一人旅を決意し、鏡石にたどり着いた。身づくろいを済ませ鏡沼まで来た時、現地の里人から夫がすでに亡き者となっていたと告げられ、悲憤に泣き崩れ、鏡を胸に夫の後を追って自害したと伝えられる。
その時の鏡はいつまでも沼の底で照り輝いていたと云われ、「鏡沼」と呼ばれるきっかけとなった。
時代は江戸まで下った元禄2年(1689年)。弟子の曽良とともに奥州入りした俳聖・松尾芭蕉が悲恋物語の舞台であり蜃気楼で道行く人が水中を歩いているように見える地としても有名だった同地に立ち寄り、紀行文奥の細道に「かげ沼というところを行くに今日は空曇りて物陰うつらず」の一文を記したことでも知られる。
天保13年(1842年)、鏡沼村に住む常松菊畦が胤長夫婦を顕彰して「磨光(まこう)編」を編纂し、県内で数少ない谷文晁の高弟で画家の蒲生羅漢(白河生まれ)が鏡沼など挿図を描いた。
悲恋の舞台となった「鏡沼跡」は昭和44年、町指定文化財第1号の指定を受け、平成16年には松尾芭蕉生誕360年とロータリークラブ100周年を記念して、須賀川南ロータリークラブとチャチャチャ21が芭蕉と曽良の石像を鏡沼跡ほとりに設置した。
地元鏡石で活動する、町詩吟希望会、あゆみ会、りんどう会は吟詠発表会「鏡沼伝説にふれよう」を同地で定期的に開き、鏡沼に伝わる悲恋物語や歴史文化を後世に伝える活動にも力を入れている。