一人の人間として生きた姿 女医服部ケサの日記展示 須賀川市立博物館春季テーマ展


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    服部ケサの人柄がにじむ日記

 須賀川市立博物館の春季テーマ展「新収蔵資料展~令和に迎えた仲間たち~」では服部ケサの子孫が寄贈した関連資料を多数展示している。中でも特に注目を集める日記には、自身が試験に受かった喜びよりも友人の不合格を悲しむ様子や、ハンセン病医療への思いなどが記され、歴史上の偉人でなく一人の人間として生きたケサの人柄が現れている。
 服部ケサは1884年(明治17年)に市内本町でランプ釜屋と呼ばれた商家に服部直太郎の次女として生まれた。姉や兄嫁の病気に接して医師を志し、1905年に21歳で東京女医学校に合格、8年後に医師免許を手にした。
 東京三井慈善病院で出会った看護師の三上千代とハンセン病患者救済を志し、イギリス人宣教師コンウォール・リーの求めで草津に開設された聖バルバナ医院に赴任、初代医師として1917年12月から務めた。
 「日本人患者の救済は日本人の手で」という理想を掲げ、7年後に鈴蘭病院を開院したが、その23日目に心臓発作を起こし、40歳で逝去した。
 市博物館は明治から大正にかけての日記を10冊以上所蔵しているが、今回のテーマ展では2年前に寄贈された1914年、17年、21年の3冊を展示している。
 1914年はケサが医術開業試験に合格した年だった。日記には「此間の恐怖心は何とも云ひ様なし、僥倖にも300号の番号は張り出されてあれど294号と云ふKさんのは見えず。其失望を推して言葉も出ず。自らの取れたと云ふよろこびよりも悲しみが増した」などと記している。
 1917年は聖バルバナ医院に赴任した年だが8月の日記には「起きて見ても腫れが退かない、重くるしく頭も重い、草津の事が絶えず気になる、神様より外にたよるものが無い。何卒日本人だけで適当な場所に収容所を作りたいもの、乍然現在は草津に行ってリー師の下に働くと云う事より外に、何も力を注いで居ない、当直」とあり、同医院への思いと、さらに先にある理想を見据えている。
 1921年は同医院に勤務していた時期である。ケサは長年、毎日日記を書いていたが、7月17日を最後にその日課をやめている。理由と思われる出来事が12月29日のページに書かれており、「我始めての経験なり、彼の人より文もらひぬ、最後の文なり 彼の人婚約せり、我とは文の上での友情であった、が、彼の人に我は何をおくらん、いな、このまま無音にすべきか?我悩みぬ、彼の太陽のごとく明るき人のおもかげ我は忘れなむ いつまでもむねにしまひ さらば妹よ(※「妹よ」に二重打ち消し線)、なつかしの人よ」と綴っている。
 同日は他の日と異なり鉛筆書きで、筆致からも出来事から受けた衝撃が伺い知れる。
 テーマ展ではこのほか、兄の躬治宛のハガキや甥静夫宛の書簡、妹の水野仙子がケサに宛てたハガキや一緒に撮影した写真なども並ぶ。
 今年で没後101年となるが、郷土の偉人が人として悩み、懸命に生きようとした姿の一端を知ることができる機会にもなっている。
 展示は6月8日までであり、ほかにも須賀川ゆかりの作家の作品や昭和時代などの道具等も見どころとなる。
 18日の国際博物館の日は入場無料。
 問い合わせは同館(℡ 0248-75-3239 )まで。