安藤フミ子さん(95)=大久保在住=
日中戦争が昭和12年に始まり、12歳上の兄である栄一さんが徴兵検査で甲種合格した。翌年1月に会津若松市の歩兵第29聯隊に入営したとき、フミ子さんはまだ8歳だった。当時の旧岩瀬村には楽隊がなかったが、栄一さんの出征を「祝う」ため、婦人会や青年会など村内から人が集まり、下大久保から旧須賀川町の境まで「勝ってくるぞと勇ましく」など鳴り物を鳴らして見送った。これをきっかけに楽隊ができたとフミ子さんは誇らしげに語る。
栄一さんは満州に派遣され、ハルピンで事変勤務に服し、成績優秀下士官勤務兵長を命じられた。
戦地から戻ったのは第2次大戦が始まった後の昭和15年12月。栄一さんの変わりように姉たちと驚いたという。「以前は、大切な自転車を勝手に触るととても怒られたが、出征後はとても優しく、すっかり大人になっていた」と在りし日の姿を思い浮かべる。
栄一さんは戻ったその月に結婚し、一方では青年学校教練指導員として後輩たちの指導にあたった。
日中戦争のみの頃は戦死者があれば集落をあげて死者を悼んでいたが、第2次大戦が始まるととても追いつける状況ではなくなっていた。
再び栄一さんに赤紙が届いたのは、戻ってからわずか10カ月後の昭和16年10月だった。戦地へ送り出す楽隊の姿は最早なかった。
東部105部隊増強要員として前線に派遣され、1年間の飛行練習を終えた後、第12航空地区司令部に属して東部ニューギニアの第一線航空部隊として作戦に参加した。
フミ子さんは義姉や家族とともに栄一さんの帰りを待ちながら朝となく夜となく山仕事などに励んだ。
そんな中、昭和20年前半に栄一さんから一通の手紙が届いた。正月に餅を食べたこと、ニューギニアの暑さなどが綴られ、ヤシの木陰で仲間とともに撮った写真も添えられていた。だがその内容は冷たい現実も突きつけた。「手紙には『到底戦火が厳しくなって、今にも危ない時代、生きてはとても帰れる見込みがないから、我が家の跡継ぎはお父さんに一任します』と、赤ペンで棒を引いて書かれていた」とフミ子さんは声を震わせる。
それからわずか数カ月後、日本は終戦を迎えた。しかし栄一さんの安否を知らせるものは一向になく、そのまま1年が過ぎた。
義父が千葉県まで安否を確認に赴き、昭和20年5月に戦死していたことがわかった。遺骨もなく、名前が入った位牌が届いただけだった。わずか28歳だった。
葬式を終えたフミ子さんを一層悲しませたのは義姉との別れだった。待つ人を喪った義姉を自由にしようと米などの食料と金銭を手渡し、見送った。「あいさつして、私は握手して泣いて別れたの、今だって忘れられない」。
戦時下の辛さを分かち合い、支え合った「アネサン」と離れ離れになるも、フミ子さんは亡兄の遺志を継ぎ、家のために尽くした。
その頃の集落はほとんどが農家だったが、自分たちが食べる物にも苦労する時代で、野草なども集めて食卓に乗せた。終戦後に復員した人たちが戻ったことで、却って戦時下よりも食料に困る状況が4年ほど続いたという。
フミ子さんがようやく平和を感じられたのは終戦から10年ほど経た昭和30年頃、安積疎水の整備により十分に農作物が採れるようになってからだった。
「今が一番幸せだ」とフミ子さんは優しく笑う。現在も子どもたちの手を借りながら、キュウリなど野菜を育て、収穫する日々を送る。
今も戦火が広がる海外の状況には眉をひそめる。「なんでやってんだべと思う。日本ではああいう苦しみをしたから、戦争だけはやりたくないと思っている。だから子どもたちに戦争の苦しみを言い聞かせていきたい」と語ってくれた。











