火曜コラム(紙面掲載 2024年5月14日)


GALATA COFFEE 沢田 隆志

「大阪ノスタルジー」

 私の実家は大阪市内の住宅地にある7階建マンションの5階で、父親は愛媛県、母親は兵庫県の田舎町出身だ。
 1980年頃に両親はその家を購入したそうだ。姉を含めた4人家族。私は高校卒業までその家で過ごした。
 マンションや公営住宅が多く建つエリアで、近所のおばちゃん、おっちゃんは私の両親と同年代が多く、ほとんどが大阪以外の地方出身者だ。
 同じマンションの5階だけで10人の小学生がいて、そのメンバーで登校班を形成した。家から徒歩圏内にいくつかの小学校があったが、大阪も当時は学区が決められていた。私の家から学校までは子どもの脚で歩いて15分程。学区の中で一番遠いエリアだった。
 下校時、酔っぱらいの名物おじいさんが毎日のように通学路にいた。今の時代では「危険人物」とされるようなタイプのそのおじいさんは眉毛がとんでもなく長くて歯はなかった。ジャンケンをすると必ずチョキを出すので、私たちは敬意を込めて「ピース」と呼んでいた。
 当時は土曜日も午前中だけ授業があった。学校から帰ると、吉本新喜劇をテレビで見ながら昼ご飯を食べ、その後、近所の「南今福公園」に行く。必ず何人か友達がいて、見たばかりのギャグを言い合いながら野球をして遊ぶというのが土曜日の定番パターンだった。
 その頃の大阪では宿題を忘れた子や、親の言うことを聞かない子は、「吉本に入れるで!」と怒られるのが、ひとつのテンプレートのようになっていた。
 学校では「おもろい奴」が人気者なのだから、あのテンプレートはよく考えれば矛盾をはらんでいる。
 去年、久しぶりに通学路を歩くと、南今福公園の遊具は増えていたが人の姿はなく、「キャッチボール禁止」の看板があった。
 「ピース」の家があった場所にはマンションが建ち、そのすぐ側にはパチンコ屋ができていて、入店待ちの客が無表情で列をなしていた。
 ピースがもし元気であれば100歳くらいだろうか。いつもニヤニヤしていて幸せそうだった。