火曜コラム(紙面掲載 2021年4月6日)

高橋 亜純


桜さくら

初桜折しも今日は能日なり 芭蕉
 季節はちゃんと巡り、花見時。若葉が萌え、光が弾け、鳥が歌い舞う。すべてのものが清らかで生き生きとするころです。
 急に春らしい天気の休日、「こっちは満開だよ」と遠くに住む娘からのメール。なんでも家の前の桜堤を花見しているようで、桜花爛漫の写真が添えられてありました。染井吉野でしょうか。ひときわ青い空に映えていました。
 この日は空気が軽く、桜が咲いたかもしれないと思い、自転車で須賀川を巡っていました。山あいはほんのりと山桜が咲き、そちこちの桜はまるで空気に紅をさすように蕾が膨らみ始めていました。これからまちが淡いピンク色に染まっていきます。
 〈世の中は桜の花になりにけり 良寛〉
 「花見だ。花見だ。」と騒ぐのは日本人のDNAに刻まれているからでしょうか。彼方此方で桜の話題です。その日の釈迦堂川の桜はまだ5分咲。それが、2日後にはすでに満開です。いつから桜はこんなに早く咲くようになったのでしょう。
 並木桜や凛と咲く一本桜も好きですが、ことに山桜が好きです。〈花あれば西行の日とおもふべし 源義〉桜の歌人、西行法師が愛でたのは山桜です。明治の半ばころまで、桜と言えば山桜でした。
 信州安曇野の残雪の山を背に咲き誇る山桜の光景は、とりわけ感動的です。信州は20代の大半を過ごした場所です。南北に長く、標高差のある地形なので5月初旬まで桜を楽しめました。
 山の中を歩くと先には、雪かと見紛う真っ白い山桜が優しく咲きかかり、一樹一樹、少しずつ違う花色と木の芽の薄緑が重なり合っています。雪深い山中でじっと春を待つ桜の枝は曲がり、全精力をかたむけて一瞬の休みもなく芽吹く姿に生命力を感じます。夜明け前は薄墨色に眠り、陽が差せば明るく膨らんでいく様は言い尽くせません。千の桜には千の色があるのだと感じます。
 そもそも桜は、冬枯れの山々に春を告げる花として咲く姿が見染められ、人々は弁当を携えて、深山に入り、自生する桜を愛でていました。やがて山中でなく堤を守るために植樹した桜を町中で花見するようになります。
 山桜から里桜になっていきました。
 お江戸の人たちの願いは「山奥じゃなくてその辺でどんちゃん騒ぎがしたい」。だから、まちの至る所に桜の植樹が始まりました。その仕掛人が8代将軍徳川吉宗だったと言われています。
 〈桜花何が不足でちりいそぐ〉は信州信濃町で生まれた小林一茶の句です。桜の情景と一茶の心情が同時に伝わってきます。
 ともあれ、貴族も僧侶も庶民も、殿様だって楽しみにした「花見」。舞い散る花びらや、水面に浮かぶ花びらを美しいと感じ、ぱっと咲いてあっさり散る、その桜の儚さをもののあはれと感じる美意識こそが、日本文化の根源ともいえるのでしょう。
 コロナ禍での2度目の春。ほんのひと時でも桜を見上げ、一瞬を大切にしたいと思うのです。今年の桜は、今年しか見られないのですから。

風流のはじめ館

高橋 亜純

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