笑顔の人・円谷幸吉 第1回(紙面掲載 2020年5月13日)


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    銅メダルを胸に微笑む円谷選手(円谷幸吉メモリアルパークに設置されたパネル)

笑顔と忍耐と

 1964年10月21日午後3時過ぎ―日の丸を胸にゼッケンナンバー「77」が国立競技場ゲートを2番目に通過した。約4分前に世界新記録でゴールしたトップ選手を上回る歓声が日本国中から上がる。須賀川が誇る故円谷幸吉選手が死力を振り絞る、東京五輪を代表する名場面の一つだ。

円谷選手は1940年5月13日に須賀川町(現須賀川市)で生まれ、奇しくも東京五輪2020開催予定であった今年、生誕80年を迎えた。

27年の短い生涯から悲劇のランナーとしての印象が強いが、実兄の喜久造さんは「明るく冗談も言う若者でした」と話し、ともに東京五輪マラソンを走り生涯の盟友であった君原健二さんは「札幌の記録会でともにビールを分け合った。笑顔が印象的な生涯を通してのライバルで親友でした」と振り返る。

東京五輪競技写真は日の丸を背に自身の限界に挑み、苦しげに口元をゆがめ眉間にしわを寄せた厳しい表情が多い。一方で競技を離れると人懐こい笑顔で関係者と写る、若者のさわやかさと好青年ぶりがうかがえる。

競技に真摯に向き合い、色紙にはほぼ必ず「忍耐」のふた文字を書いた。国の代表としての強い責任感だけでなく、どこか悲壮感すら感じるのは筆者だけだろうか。

東京五輪直後の取材に、「ゆっくり眠れます」と答え、翌日の新聞にはメダルを胸に右手を挙げる円谷選手が紹介された。

この写真は今年3月に「円谷幸吉メモリアルパーク(旧大町よってけ広場)」にも大型パネルで掲示された。「オリンピック関係で、一番幸吉がほっとした表情で本人らしい笑顔。皆さんにこの写真の幸吉をいつまでも覚えていてほしい」と喜久造さんは話す。

4年後のメキシコ五輪を目指すも、たび重なるけがで思うように記録が伸びず、理解のない上官の無責任な行為も円谷選手を追い詰めていった。1968年1月8日、自衛隊体育学校幹部宿舎の自室で自ら命を絶つ。

時に「彗星」に例えられる、鮮烈な円谷選手の生涯を、生誕80年を記念して関係者の談などを交えながら連載していきたい。