笑顔の人・円谷幸吉 第2回(紙面掲載 2020年5月16日)


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    少年時代の円谷選手(前列中央)と家族

陽気な少年期と厳格な教え

 円谷幸吉選手は1940年5月13日、元軍人で手広く農業を営む父幸七、母ミツの六男、7人兄弟の末っ子として産まれた。

両親だけでなく年齢の離れた兄・姉からとてもかわいがれ、まじめな性格の中にも人懐っこく明るい笑顔の絶えない少年時代を過ごした。

一方で父幸七は子どもたちを軍隊さながらの厳しいしつけをし、呼ばれたら返事を、整理・整頓、人にはあいさつを、自分のことは自分でするなどを熱心に教えた。

特に子どもたちを庭に整列させ号令訓練をするときには、幸七の大声に住民が見学にわざわざ訪れることもあったと言う。

小学生時代には厳格な父が自宅に居るか居ないかは、友達と家で遊ぶときの大問題であり、遊ぶ前に状況をうかがい友人とサインを交わして、その日の予定を決めるなど少年らしい一面をうかがわせるエピソードもある。

父の教えは円谷選手の競技人生にも大きな影響を与えた。

東京五輪で2番目に競技場ゲートを通過した円谷選手のすぐ後ろにはヒートリー選手(英国)が迫っていた。死力をつくしゴールを目指す2人であったが、残り200㍍で円谷選手は抜かれ銅メダルになった。
このときも決して後ろを振り返らず懸命に走り抜いたのは、選手自身の限界もあったのだろうが、「振り返るのは自分に自信がないからだ。堂々とやって勝て」という父の言葉が強く影響したことは間違いない。
円谷少年は活発に友人と遊ぶ一方で、家業の農作業も熱心に手伝っていた。飼っていたイヌの散歩も日課となっていたが、その時にイヌに引きずられ転倒したせいで腰を痛めてしまった。このときのけがが円谷選手を生涯苦しめる一因となり、やや腰をかがめながら走る独特なフォームにつながっている。

男子マラソン銅メダリストの片りんは少年時代からみられ、須賀川一小では運動会1分間競走5位、須賀川一中は校内マラソン大会3位など上位入賞した。 

その後、須賀川高校に進学して「走る」ことを本格的に意識し、才能が花開き始める時がやってくる。