笑顔の人・円谷幸吉 第3回(紙面掲載 2020年5月20日)


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高校・飛躍への第一歩

 高校に入学した円谷選手は、 学業に厳しかった父幸七の勧めもあり、 珠算、 剣道、 速記などの部活に所属した。

しかし、 どうにも性に合わなかったのか、兄喜久造さんが青年団の仲間と作ったランニングクラブ「須賀川クラブ」に父の入浴時など目を盗んで参加した。「自分も走りたい」と積極的に加わり、走ることの楽しさを知る第一歩だった。

高校2年で大きな転機が訪れる。実力試しで出場した郡山~須賀川間ロードレース大会で、100位以内にも入れなかったが、大人に交じり疲れ一つ見せない姿が陸上協会役員の目に止まり、報告を受けた細谷光教諭の強い勧めで陸上部へ入部した。

スピードをつけるため400㍍リレーの練習をする陸上部員と一緒に走らされるなど、短距離と長距離を組み合わせた独特の練習方法を繰り返した。

県南縦断駅伝大会に出場する須賀川クラブに帯同した。当日になり突然、選手の1人が体調不良となる。選手登録に補欠はいない、出場できなくなりそうだったが、棄権も惜しいと変更届も出さず円谷選手が出場すると見事に区間トップで走り抜いた。欠場選手の名前が書かれた賞状に、後で円谷選手の名前を書いた紙を貼り替えて届けられたのは心温まるエピソードだ。

このころから陸上選手としての人生が動き始める。高校3年生で須賀川牡丹マラソン大会2位、6月にインターハイ県大会5000㍍3位で初の全国出場を果たす。山口県で行われた大会は、後に生涯のライバルとなる君原健二選手とともに予選落ち。全国との力の差を実感する結果となった。

一方で「あのインターハイは前に出ればテレビに映るぞと言われ、オーバーペースになった」と後に喜久造さんに振り返るおちゃめな一面もあった。

その後、県陸上競技選手権でも2位に入り国体出場。その年の11月に東日本縦断駅伝(青東駅伝)に選ばれた。青東駅伝代表は郷土の誇りでもあり父も大いに喜んだ。

高校で初めて本格的に陸上を始めた円谷選手は「目の玉が小さくなり、やつれていく」ほど厳しい日々だった。

喜久造さんは体力をつけさせるために、くまたぱんとブドウのしぼり汁を食させた。ブドウ汁は円谷選手の陸上生涯を支える栄養源となっていく。