笑顔の人・円谷幸吉 第4回(紙面掲載 2020年5月23日)


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    斉藤陸曹と笑顔の円谷選手

入隊・青東駅伝伝説の15人抜き

 高校卒業後は実業団で活躍していた常磐炭鉱へ入社し陸上継続を希望していたが、折からの炭鉱不況から叶わなかった。失意の中目についたのは道端の自衛官募集の看板。

 当時の自衛隊には陸上をする環境はなく、半ばあきらめもあったようだが、入隊を打診した円谷選手に父幸七は「若いもんは2、3年教育を受けてくるのもええんだ」と賛成した。

 1959年春、自衛隊郡山駐屯地に配属された円谷選手は、訓練が終わってから夕方の自由時間に黙々とトレーニングを続けた。

 そこで出会った斉藤章司三等陸曹とともに陸上クラブを立ち上げ、厳しい練習後に毎日20㌔を走破するようになった。2人は各地のマラソン大会に出場して実績を残し、「郡山自衛隊の円谷幸吉」の名前は次第に知れわたるように。

 円谷選手がめきめきと頭角を現す一方で、斉藤さんは「(円谷選手の)異常なまでの速く強く走ることへのこだわりと、過剰なまでの気遣いを感じる」ようになり始めた。

 円谷選手は休日になると、斉藤さんと一緒に駐屯地から須賀川市の実家まで片道約20㌔のロードワークを行った。母ミツの手料理を腹いっぱいに食べるのが何よりの楽しみだったと言う。

 そこで、斉藤さんは父の厳しい教育に接し、円谷選手の原点を目の当たりにする。

 のちに斉藤さんは五輪に向かっていく円谷選手をメダル獲得という「任務達成のために走る」姿であったと振り返る。幼少期から育まれた強い責任感は東京五輪での銅メダル獲得とともに、大会後の苦悩と心の束縛につながったとの見方もある。

 郡山駐屯地で2人きりの練習を積み重ねた円谷選手と斉藤さんは、東日本縦断駅伝大会(青東駅伝)への代表選出を目標にする。

 円谷選手は入隊した1959年から3年連続で青東駅伝に出場し、1961年大会では3回(区間)走り、1回目は3人、2回目は8人、3回目は4人を抜き、今でも伝説として語り継がれる「円谷幸吉の15人抜き」を達成する。

 1960年には県総体優勝、熊本国体5位、翌年は日本陸上選手権6位、秋田国体2位(君原選手3位)と記録を残し、わずか3年間で名実ともに県トップ選手へと急成長を遂げた。

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