笑顔の人・円谷幸吉 第5回(紙面掲載 2020年5月27日)

スポーツ文化

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    公私に渡り力を合わせた畠野コーチと

かけがえのない仲間との出会い

 3年で県を代表する選手へと躍進した背景には、斉藤章司三等陸曹とともに発足した陸上競技部がある。毎日の練習は、その日の調子によってガムシャラに走る「成り行き走」であったが、2人は「長距離ランナーとして必要な補強訓練」など綿密な練習ノートを作り、スタミナ強化や筋力+スピード強化など計画的に進めた。

 全くの素人集団ではあるものの30人ぐらいの部員が徐々に集まり、「走ることを楽しむ」仲間たちと、より強くなろう、さらに速くなろうと充実した隊員時代を過ごしていた。

 東京オリンピックを2年後に控えた1962年、五輪でのメダル獲得を至上命題とした自衛隊体育学校(東京都練馬・陸自朝霞駐屯地内)が設立された。

 円谷選手は入学選考会を持病の腰痛のため回避したが、これまでの実績が高く評価され第一期生として入学した。彼の実力を見込んで強く推薦したのが、ここからさらなる飛躍を二人三脚で支えた畠野洋夫コーチだった。

 当時の自衛隊は60年安保など動乱の渦中にあり、体育学校も満足な練習環境が整っているとは言えない状況で、選抜選手全員がトラック造成に駆り出されるほどだった。

 その年の円谷選手は5000㍍などトラック競技で頭角を現しており、「世界のスピードマラソンに対抗できる」と、織田幹雄東京五輪陸上総監督の紹介で、体育学校からもほど近い、箱根駅伝の名門・中央大学夜間部に入学した。

 中央大学練馬グラウンドを主練習場とした円谷選手は、畠野コーチ、生涯の練習パートナー宮路道雄さん、南三男さんとともに全国トップレベルへと階段を2段飛ばしするほどのペースで駆けあがっていくことになる。

 円谷選手は「速くなるには練習しかない」と愚直に日々グラウンドに向かったが、持病の腰痛を抱えながらの日々であった。

 畠野コーチは、トレーニングはもちろんだが、体調を整え、疲れを取ることの重要性を「円谷、練習するな」の言葉に込め、まじめで忍耐強い円谷選手に休むことの大切さを繰り返し教えていった。

 畠野コーチと肩を組み笑顔の円谷選手が写った写真からは、1962年がいかに充実した1年であったか、2人の強い信頼関係とともにうかがいしれる。