笑顔の人・円谷幸吉 第6回(紙面掲載 2020年5月30日)


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    外国人選手と笑顔で握手する円谷選手と君原選手(右から3人目)

〝日本の円谷〟へ第一歩

 自衛隊体育学校入隊を契機に、斉藤章司三等陸曹との我流練習から、畠野洋夫コーチを中心とした専門的なトレーニングへ移行した円谷選手はメキメキと力を付けていった。

 62年の日本陸上選手権5000㍍と1万㍍を大会新記録で優勝した円谷選手は、走り始めて5年で名実ともに日本を代表する選手へとなる。世界レベルで低迷が続く日本陸上界から注目を集めた。「東京五輪に向けた秘密兵器に」の声が挙がるほどだった。

 東京五輪前年の1963年を練習パートナーであった宮路道雄さんは「(東京五輪で)とにかく円谷に日の丸をあげさせよう」が当時の決意と責務であったと振り返る。

 前年の活躍でオリンピック強化選手に選ばれた円谷選手だったが、63年は持ち前の明るさと走ることの楽しさが記録や周囲からの重圧と責任感を上回り、さらに五輪代表へと素質を開花させる充実した1年となった。

 6月の全日本実業団陸上1万㍍は2位ながらも自己記録を30秒近く更新してさらに注目を集めた。日本陸連はさらなる成長を期待し、国内エース級の選手を集めたニュージーランド遠征合宿に円谷選手を参加させた。

 全国トップで活躍しマラソンランナーとしても実績があった君原健二、 寺沢徹両選手 (ともに東京五輪マラソン代表) とも世界を見据えた合同練習を行った。

 ニュージーランド遠征では外国人選手らとともに汗を流し、 合宿中の世界記録競技会に出場した円谷選手は、 2万㍍を59分51秒4、 1時間競走で2万081㍍とともに世界新記録を樹立した。

 当時の日本陸上競技界における世界新記録更新は7年ぶりの快挙であり、 東京五輪を1年後に控えた状況でさらに円谷選手への期待と注目が高まった。

 9月のシドニー国際大会、 10月の山口国体でも優勝・日本記録を更新し、 名実ともにトラック競技における日本一の立場を盤石のものとした。

 世界新記録を更新し、 日本に凱旋帰国した円谷選手は取材に対し 「遠征でスピード不足をスタミナで補うことができ自信が付きました。 外国選手も怖くありません」 と自信たっぷりに答え、 日本新記録更新を目標に掲げた。

 その後の大会で目標を達成して優勝し、 東京五輪開催の1964年に向けた円谷選手は順風満帆であった。

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