笑顔の人・円谷幸吉 第7回(紙面掲載 2020年6月3日)


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    東京五輪前に笑顔で記念撮影 (左から)南さん、円谷選手、畠野コーチ、宮路さん 円谷喜久造さん提供

 1964年当時の円谷選手はトラック競技におけるスピードスターとして、五輪でのメダル獲得を大いに期待されていた。

 日本陸連は君原健二・寺沢徹に続く3人目のマラソン代表を模索している中、「世界のスピードマラソンに対抗できる選手」として円谷選手に白羽の矢を立てた。

 1万㍍・2万㍍で世界新・日本新記録を樹立してきた円谷選手であったが、マラソン公式大会への出場は63年まで全く無かった。

 64年3月の中日名古屋マラソンが初マラソンで、いきなり5位入賞(2時間23分31秒)。その勢いで出場した4月の五輪代表選考大会でもある毎日マラソンは、君原選手に次ぐ2位入賞(2時間18分20秒2)となった。

 毎日マラソンは大会運営リハーサルも兼ねて東京五輪と同じコースで行われ、1位君原、2位円谷、3位寺沢の3選手が大会新記録でゴールした。

 マラソン代表選手選考は、3人目の代表候補に円谷選手以外の声も多数上がった。3月の初マラソンから2カ月ほどの経験不足を危ぶむ声も多かったが、「円谷君の頂点はまだ先にあるように思う。円谷君のスピードを買いたい」と、織田幹雄東京五輪陸上日本代表総監督らが強く推し、1万㍍とマラソンでの東京五輪出場が正式に決まった。

 その後も6月の新潟国体5000㍍で日本新記録を更新して優勝、8月の北海道タイムスマラソンは2位(2時間19分50秒)、オリンピック候補記録会1万㍍は28分52秒6でさらに日本記録を塗り替えた。

 円谷選手の五輪代表選出は、須賀川町に大きな希望と勇気を与え、大会本番に向けて日を追うごとに機運が高まっていった。

 本番に向けて大応援団が編成されるとともに、母校である須賀川高校は生徒会有志が中心となり、近隣高校にも協力を呼びかけて、目抜き通りを情熱の赤い花サルビアで飾る「サルビアの道」パレードを敢行した。近隣住民とともに五輪に向けてまちなかを盛り上げ、メダル獲得後の円谷選手凱旋にも花を添えた。

 余談ではあるが2019年に2度目の東京五輪に向けて、56年ぶりのサルビアの道が復活し、後輩らの協力でまちなかを真っ赤に染め上げた。

 今年3月の聖火リレーと7月の東京五輪にもサルビアを飾る予定をしていたが、新型コロナによる延期で断念。5月の生誕80年にあわせて松明通りなどに配置し3度目のサルビアの道復活となった。