笑顔の人・円谷幸吉 第8回(紙面掲載 2020年6月6日)


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    レース直後倒れ込む円谷選手

第8回 世界の円谷・胸に銅メダル輝く

「銅メダルは絶対に取らなければ」。円谷選手の練習パートナー宮路道雄さんは当時の決意を語った。自国開催五輪として、国を護る自衛隊員として、五輪が近づくにつれてその重圧が円谷選手の両肩に圧し掛かっていった。
 東京五輪は1964年10月10日に開幕し、陸上競技は14日から始まった。円谷選手が出場した1万㍍は小雨交じりの中で前半からスピードレースとなる中、期待通りの6位入賞を果たした。28年ぶりの五輪トラック競技入賞の一報は、日本の誇りとして全国を駆け巡った。
 日本陸上が表彰台を逃し続ける中、マラソン代表の3人は必勝を期し調整合宿に臨んだ。円谷選手ただ一人が本番直前まで練習を重ね集中力を高めた。レース当日となった21日、朝食に特大ステーキとトーストを平らげ、心身ともに順調な仕上がりぶりを見せた。
 男子マラソンに向けて大型バス3台に分乗して須賀川町を出発し、200人近い大応援団が編成された。競技は午後1時に陸上競技場をスタートし、2連覇を狙うはだしの英雄・アベベ選手(エチオピア)をトップにハイスピードレースが展開された。
 円谷選手は地元応援団の「円谷幸吉ガンバレ」の大声援を背に、日本人トップで懸命に食らいついていった。
 円谷選手はかつて陸上競技について、兄喜久造さんに「前向きにやっていれば必ず走れる時がある。苦しみがあって喜びがあるんだ。自分は嫌々走ったことは一度も無い」と語っていたと言うが、陸上競技場に2位で入ってきた円谷選手の表情は苦悶にゆがみ、「ここまで苦しそうに走る幸吉は初めて見た」と振り返っている。
 円谷選手は直後に入ってきたヒートリー選手(イギリス)と激しいトラック競走の末で力尽き銅メダルに。記録は2時間16分22秒8で自己最高記録でのゴールであった。
 死力を振り絞った円谷選手はゴール後、陸上競技場に崩れ落ち、控室の簡易ベットで悲しげな表情を浮かべていた。8位完走の君原健二さんは、「国民の面前で抜かれてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。次のメキシコ・オリンピックではもう一度メダルを取るんだ。それが国民との約束だ」とその後打ち明けてくれたと振り返る。
 東京五輪日本陸上唯一の日の丸を国立競技場に掲揚した円谷選手は、銅メダルを胸に安どとも見える笑みで会場の声援に右手を挙げた。その笑顔の裏に悲壮なまでの決意が隠されていたことを当時の誰もが知ることは無かった。