笑顔の人・円谷幸吉 第9回(紙面掲載 2020年6月9日)

スポーツ文化

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    祝賀パレードで笑顔の円谷選手 提供:大内康司氏

第9回 「忍耐」と「笑顔は」永遠に

 父幸七の教えを最後まで守り、ヒートリー選手が背後に迫っても決して後ろを振り向かなかった円谷選手だったが、自己ベスト記録を2分近く更新しての決着に、ゴール直後は半ば失神状態だった。
 4年後のメキシコオリンピックでの優勝を自身に誓った円谷選手だったが、過度な練習がたたり持病の椎間板ヘルニアとアキレス腱痛が悪化してしまう。幼少時のケガでゆがんだ腰にさらしを巻いて応急対応していた。これ以上の無理は効かない状態だった。それでも全国各地からの招待に笑顔で応えた。
 須賀川町に凱旋したのは1964年11月。祝賀パレードは多くの地元住民が笑顔で出迎え、円谷選手もふるさとの温もりに包まれ、「どの場所よりも穏やかな笑顔」だった。
 地元で開かれた講演会を聞いたと言う須賀川高校OBは「郷土の誇りである円谷先輩をひと目見ようと、ものすごい人が集まっていた。講演は実直でまじめでおだやかな先輩に親しみを感じるものでした」と振り返る。
 東京五輪を契機に須賀川の偉人・円谷幸吉が、「日本の円谷」へと変貌し、思うように練習に時間を割けなくなっていく。さらにケガの悪化、五輪に向けて苦楽をともにした畠野洋夫コーチの転属、突然の自衛隊幹部候補生学校転向などが重なった。
 「メキシコまで時間が無い」と周囲に焦りを打ち明け、記録も伸び悩んだ。初マラソンから7カ月1日で五輪銅メダリストとなった円谷選手だが、「国民との約束」を果たせない現実に押しつぶされていった。
 自衛隊職員だった女性と婚約していたが、当時の体育学校長の横やりで破断となったことも大きな打撃を与え、郡山駐屯地陸上部の仲間らとともに浮かべた笑顔の写真の面影はどこにも無かった。
 メキシコ五輪前年の67年に限界を迎えた足と腰の手術を余儀なくされ、退院後の体調も万全とは言えなかった。「東京オリンピックで彗星のごとく現れた円谷は、いま消えていこうとしている」との一部報道があり、さらに追い打ちをかけた。
 円谷選手は68年正月、須賀川町の実家で家族に囲まれて4日朝まで過ごした。4日後の8日早朝、体育学校の自室で自死しているのが発見された。
 昨年の台風19号浸水被害で休館中の円谷メモリアルホール(須賀川アリーナ併設)に遺書をはじめ、銅メダルやシューズなど関連資料が多数展示されている。
 「忍耐」を胸に悲運のランナーとしてのイメージが定着している円谷幸吉選手ではあるが、本連載を通して人懐こく、お茶目で穏やかな須賀川人であった「笑顔の人・円谷幸吉」をわずかでも感じてもらえれば幸いである。
 (筆・笠井隆雄)

 

【参考資料】
 中日新聞 「聖火移りゆく」 2020年1月
 福島民報 「ふくしま人」 2017年8月
 円谷メモリアルホール展示資料
 駅伝王国2013
 長距離王国の現在・過去・未来 マラソン・駅伝福島
 オリンピック東京大会写真集