1964年東京五輪男子マラソンで、ゴールに向かう円谷幸吉選手は2番目に国立競技場のゲートを通過した。7万人が詰めかけた応援席からこの日一番の歓声が円谷選手に送られた。
円谷選手は2年後に新成人へ贈るメッセージのなかで当時を振り返り、「あの長かった42・195㌔のコースの沿道の人波から『しっかり、円谷!』、『ガンバレ、円谷!』と老若男女の声を限りのあの声援が一歩一歩を後押ししてくれているような気持で走り抜きました」と述懐している。
陸上競技場に2番目で駆けこんだ円谷選手だったが、ゴール直前にヒートリー選手(英国)に抜かれて銅メダルに輝いた。
2人に直接的な交流があったとする公式記録は見つけられなかったが、平成26年10月9日に須賀川アリーナ内円谷幸吉メモリアルホールをヒートリーさんが訪れ、実兄の喜久造さんと対談した。
日本オリンピック委員会(JOC)が東京五輪・パラリンピック50周年を記念して開催した祝賀祭に出席するために来日し、今も語り継がれるゴール直前での激戦を繰り広げた盟友の出身地を「訪ねてみたい」とヒートリーさんが熱望し、初めての来須が実現したものだ。
ヒートリーさんと喜久造さんは2人で肩を組み合いながら円谷選手の記録映像を観賞し、「円谷選手と最後まで競り合うことができ、走ることができたことが今でもうれしく思う」と振り返り、円谷選手の写真パネルの前でがっちりと握手を交わした。
50年前を振り返りながら「レースの後でもっと幸吉選手と語りあう時間が取れれば良かった」。そして、若くして命を絶ったことに「まだまだ若かった円谷は、もっと強くなる時間がいくらでもあった」と早すぎる別れを惜しんだ。円谷選手の墓参りもした彼の胸中にはどのような思いが去来しただろうか。
メモリアルホールには、ヒートリーさんが須賀川の子どもたちへと書いた「勝利はすばらしい。友情はさらに特別なものだ」の色紙が展示されている。
ヒートリーさんは昨年8月3日、英国内の親族宅で亡くなった。享年85歳。訪日中に解体工事のスタジアムを見ながら「円谷の記憶は永遠に残る。今回、故郷を訪ねたことで、私には(東京五輪が)一層特別な思い出になった」と振り返ったと言う。天国で再会した2人の再戦はどちらに軍配が上がっただろうか。生前果たせなかった友情を育んでいることは想像に難くない。