花笑み
ふと、この時期になると思い出す光景があります。あの日展示室の一角には、まだ雛人形と桃の花が飾られていました。天地がひっくり返ったような大きな揺れと轟音。空は灰紫色の雲が垂れ込んでいました。
静まり返ったあと、ほんの数刻立ちすくみ、倒れた展示ケースの傍に散った桃の花びらを拾い集めていたことを覚えています。小さな花は無邪気に優しく、慰みになった気がしました。
あれから10年。変わっていく地域の風景やそこに暮らす人びとの姿も、各地の被害状況もみえづらくなるにつれ、幾層もの表情があらわれていくように感じます。それでも月日は流れ、いくたびも季節は巡り、春はすぐそこまで来ています。
日本には春夏秋冬の四季だけでなく二十四の気という季節、七十二もの候という季節があり、むかしの人は暦をもとに暮らしていました。
七十二候のなかでも、微笑ましいのが「桃始めて笑う」でしょうか。冬ごもりしていた虫たちが陽気に誘われて土から顔を出す季節、啓蟄の中の2番目になり、およそ3月10日から14日ごろまでの季節です。「笑う」とは花が咲くこと。虫や草の目覚めに続いて、桃のつぼみがほころび、花が咲き始めるころ、という季節です。
春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出でたつ娘子
と大伴家持が詠った歌碑が翠ケ丘公園に建っています。
春が訪れ、美しく照り映える桃の花が一斉に咲きそろう道に佇む少女。万葉の時代「にほふ」といえば、色のこと。艶やか、映える、染まるなどを表します。 やわらかい春の光に照らされて、作者には少女が花びらのように見えたのかもしれません。
俳句では正岡子規が〈故郷はいとこの多い桃の花〉と詠み、芭蕉は〈両の手に桃とさくらや草の餅〉と詠みました。
折しも花開いた桃と桜を眺めながら、草餅を食べているのです。この句、三月三日桃の節句に桃と桜にも比すべき高弟の宝井其角と服部嵐雪のことを比喩して詠んでいます。
私の庭には桃と桜が咲き、私には頼もしい二人の弟子がいますよ、という句意でしょうか。春の喜びを両手いっぱいに携えて、何ともご機嫌な句です。
先日、桃の花が届きました。ぷっくらとした愛らしい花。こうも災いが続き、ことに厳しい冬が去ったあとは愛らしい花の姿に自然と顔がほころぶのです。
むかしは、花が咲くことや咲いた花のような笑顔を「花笑み」といったといいます。
三月は悼む月であると同時に春を愛でる月。禍福こもごもの月です。
楽しむゆとりも奪われそうな現今ですが、笑顔になれる理由をつねに見つけられるよう過ごしたいと思うのです。
地震の話いつしか桃が咲く話 ムツオ
(『語り継ぐいのちの俳句 3・11以後のまなざし』より)