牡丹薫るまち
牡丹散って打ちかさなりぬ二三片 蕪村
晴れた5月の朝、散歩の道すがらの家の牡丹花が歩道にせり出していました。朝露に濡れた大輪の牡丹と対峙していると、なにか牡丹の放つ妖力に気が呑まれていくようです。
数日後、その花を覗き込もうとしたときでした。今まで寸分の乱れもなく艶やかに咲き誇っていた花が崩れ落ちるように花びらが散り落ちたのです。まるでその時を待っていたのかのように。
須賀川のそこかしこの庭先や公園、小路に牡丹が咲いています。一輪咲いただけでもその存在感は大きく、咲き揃うと圧倒される美しさです。
ときに満開に咲く牡丹園の牡丹を見たのはいつだったか。ともすると、いつの間にか時季が過ぎてしまいます。
そんな訳で、今年は帰郷していた娘を誘って牡丹園へ。すでに牡丹は満開で、ことに白牡丹が美しく咲き誇っていました。
白牡丹といふといへども紅ほのか 虚子
「白」と思いきや、ふと花芯の辺りにさす「かすかな紅色」に気づくのです。白牡丹に女性が紅をさすような艶っぽさを思わせ、それでもって音の響きが小気味よい名句です。
愛情をかけられ大切に見守られているそれらは、誇らしげに互いの存在を打ち消すことなく、それぞれが一番ふさわしいと思える位置に花を咲かせています。えも言われぬ富貴さを漂わせて。
「小さい頃、よく遊んだよね。」娘がそう言うと、懐かしそうに写真におさめます。もっぱら夏の夜は、子ども達と駐車場近くの街路樹の木を揺らしてのカブトムシ捕りでしたが。
「この場所が好きだったな。ほらジブリの世界みたいじゃない。」という其処は、葉と葉の間から、木洩れ日がまっすぐ降り注いでくる場所。この場所は二階堂氏の別邸・庭園が残る、牡丹稲荷神社です。奉納された朱色の鳥居がいくつもいくつも並んでいます。
「『立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花』ってどんな意味だっけ」と聞かれ、あれこれ説明するのですが、どうも説得力がないようです。
たしかに美しい女性の容姿や立振る舞いを花にたとえて言い古されてきた都々逸(どどいつ)なのは知るところ。
都々逸とは、七七七五調の江戸末期から明治にかけて、庶民を中心に流行った言葉遊びです。どうやら学術的にも語源がはっきりしない謎の詩文とあります。
もっとも、美人の尺度もその時代の心持ちによって決められますので、「今」の美人のそれとは大いに異なっているわけなのです。
帰り際、マスクを外し牡丹の花に顔を近づけてみると、ふわりと優しい香りがしました。
これから、藤の房が香り、芍薬が咲き、満開のつつじが終わると、梅雨のはしりの雨が降ります。栗の花が咲き、梅の実が膨らんで・・季節は折り重なるようにやってきます。
来年は今という季節を、五感ぜんぶの感覚を揃えて受けとめることができる年であるよう願うばかりです。
園主より身は芽牡丹の奴かな 破籠子