火曜コラム(紙面掲載 2023年2月21日)

高橋 亜純


春寒し

 立春を過ぎてもまだ冴返る日が続きます。明治の文人・斎藤緑雨のことばに〈風流とは寒きものなり〉があります。雪見や花見など情緒あるものは風流を解する心がない人には、ただ寒いだけでつまらないもの。嗜みがある人には寒き日にも趣を感じるものでしょう、と。
 ならば日ごろの心の塵を、清新な空気で払おうと休日、北へと車を走らせました。向かった先は雪、雪、また雪の世界、湯けむりに包まれた温泉です。
 頭頂からつま先まで冷えきった体をゆったり沈めると、頭の芯がつんとし、命がふきこまれるよう。しばらく目の前に広がる無言の雪景色を眺めていました。
 時折、吹きくる心地よい風を受け、なんとも言えない幸福感に包まれます。外湯は誰もいなく、こんこんと湯が流れる音が完ぺきな静寂を際立たせていました。この日は好天。晴れた空から雪片がひとひらと舞い降りてきます。これが風花。天泣(てんきゅう)ともいう、美しい言葉です。
 雪は、しばしば花にたとえられます。寒花、天花、銀花、花弁雪…。雪の結晶を六弁の花にたとえた六花。
 温泉には雪が似合います。昔日暮らした信州も温泉地の多い土地でした。道すがら「温泉」の文字を見ると吸い込まれるように暖簾をくぐってしまいます。
 よいことに一日の仕事を終え、20分も車を走らせれば、北信五岳などの山々が一望できる小布施温泉がありました。
 北信五岳とは斑尾山、妙高山、黒姫山、戸隠山、飯縄山。湯船から見える山々は春の残雪、夏には星の林が満天に広がり、秋の初冠雪から初冬にかけての景色は息を呑むほど。
 小布施町は北斎や一茶ゆかりの地です。温泉のちかくにある岩松院の天井に描かれた北斎晩年の大作「八方睨み大鳳凰図」は有名。
 裏庭には一茶の代名詞とも言える名句〈やせ蛙まけるな一茶是に有〉が詠まれた蛙合戦の池があります。当時の信州は一茶の門人が彼方此方におり、俳諧が盛んでした。
 大衆として生まれ、大衆として生き、喜びも哀しみも、生きることの刹那もぜんぶ、心の一瞬を詠んだ句は2万句以上にのぼります。生きているだけで丸儲けだと人生を肯定した一茶の生涯に惹かれます。
 一茶の『おらが春』には須賀川の女流俳人・市原多代女の<老たちの出る夜となれば朧月>が掲載されています。
 いつのまにか湯船には、赤ちゃんを抱いたお母さん、少女、おばあさんの家族連れが浸かっていました。「自分にもあんな頃もあったな。」と懐かしみ、おばあさんの顔じゅうの皺を総動員した大きく豊かな笑顔を見ていると、いつか人は誰もが旧り行くもの。
 湯気に交じる何気ない風景を眺めながら、此処にも、彼処にも、誰かの人生があって、それはきっと、穏やかな日常がそこにあるからかもしれません。その日常は、誰かが誰かを大切に思っているからこそ、あるのだと。そんなふうに思うだけで心丈夫になります。
 そろそろ山の雪が解けて川に流れこみ、福島にも春が訪れます。

風流のはじめ館

高橋 亜純

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