火曜コラム(紙面掲載 2023年7月18日)

高橋 亜純


醤油かおる

 台所に山のように盛られぷっくり艶々とした茄子。煮てよし、焼いてよし、揚げてよし、漬けてよしの野菜界の千両役者。夏茄子は燦々と太陽を浴びて、実が詰まり熱を加えても煮崩れしません。
 丸々とした茄子の皮をじわりじわりと焦がした焼茄子がわたしは好み。普段は生姜おろしでさっぱりとですが、この日のために仕込んでいたものがあります。豆味噌。いわゆる八丁味噌で原材料に大豆だけを使い、それに塩と水を加えて作ったものです。
 というのも何気なくめくった雑誌のなかに懐かしい風景がありました。そこには学生のころの友人が住む町、愛知県の西、知多半島のまん中に位置する武豊町。港がすぐそばで
 海運をいかして古くから味噌や醤油の醸造が盛んな町です。
 名古屋駅から電車に乗ること1時間。駅を降り立ち、まちに一歩足を踏み入れた瞬間、鼻先に香ばしい匂いが通り過ぎます。
 すがたはどこにも見えないのに、ただ空気に混じっているだけなのに、いまでも記憶のなかで、じわじわと発酵し続けているような懐かしさ。
 黒板塀が続き、味噌蔵が並ぶ小路を歩くと、そこかしこから溢れるお豆の匂い。道すがら、しじゅう立ち止まる商店がありました。奥を覗くと、2メートルほどの木桶がずらりと並んでいたのを憶えています。
 ふるさと愛知は醤油といえば、たまり醤油です。愛知県特有の「豆味噌」をつくる工程で桶底に溜まった液体が“たまり”。まさに自然の産物です。
 とろりとして濃厚な味わいが特徴で、ほとんど小麦を使わず、大豆と塩のみを原料としています。一見、濃い琥珀色は塩分が多いようにみえますが、醤油の中で最も塩分が少ないそうです。
 季節の巡りに則って麹を仕込み、もろみを搾る。気の遠くなるような先人たちの丁寧な仕事が次世代につながっています。
 ところで「醤油造る」は夏の季語とあります。仕込みはいつでもよいのですが、とくに夏とするのは、発酵作用が盛んなことと、麦の収穫期とも重なるからでしょうか。 
 万能な醤油。焼茄子、卵かけごはん、干物、山かけに冷奴。そして、もちろん刺身。ちょろりとたらせば、それぞれの巧さを一緒に引き上げ花開かせる。ごくわずかでも。ふわっと、きりっと料理を鮮やかにしてくれます。
 現在、日本には何千種類もの醤油があるといいます。人それぞれ、育った場所が違えば好みも違います。その地でなければ生まれなかった味も。
 須賀川は、水質が良いこともあり、味噌や醤油の醸造が盛んで数代にわたる老舗が幾つもありました。明治期の商店広告がぎっしりと載ったチラシ「須賀川町名士豪商勉強商店銀行會社便覧」からは往時の様子が伝わってきます。
 さて自家製「豆味噌」。出来はともあれ、どこか懐かしい味を連れてきてくれました。ゆっくりと味噌をつけた茄子を味わう。こんな些細な幸せの蓄積が日常の土台のような気がするのです。

風流のはじめ館

高橋 亜純

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