涼景
暦でいえばすっかり秋、というのに酷暑が続き、夏の果てが見えない毎日です。
そんな先ごろ、東京日本橋を南下し歩いていた夕刻、「すみません!」という声と同時に「ビシャッ」と、放射線を描くように飛んできた水を豪快に浴びたのです。
そこは数時間前の必要以上の暑熱を容赦なく通行人や街に照り返す炎昼、日陰を探し求めて表通りから一歩裏に入った路地。
住人が打水をしていた水が勢いよくかかってしまいました。住人の女性は、道や植込みなど余すことなくたっぷりとぬらします。一瞬、空気がゆるみ、うるさいほどの蝉の声がとまったかのように、ふっと、ひと時暑さを忘れさせてくれる涼しい風が通り過ぎました。
打水の歴史は、古くは神様が通る道を清めるという意味合いがあったと言われています。
茶事の前に礼儀として行われるようになり、のち江戸時代には凉をとる手段に。天秤棒を渡した二つの水桶の底に小さな穴をいくつもあけておき、担いで歩き回りました。
そうすると、その穴から出る水で、街中の土埃が舞わないように、涼しさを誘うというわけです。
「むかしはね、家の中の何処に坐っても涼やかな風が感じられたんですよ。」と女性が声をかけてくれます。
吉田兼好の『徒然草』に「家のつくりやうは、夏を旨とすべし」とあるように、日本家屋は、戸を開け放てば家の中を風が吹き抜けて、熱や湿気をため込まない造り。夏をどうやって凌ぐかが優先されていたのです。
その特徴を生かすアイテムのひとつが、簾(すだれ)。見るとその家の軒先に簾が掛けられ、風鈴の短冊がきりきりと舞っています。今はあまり見かけない割竹の簾。曲がっているので、微妙な隙間が出来、見た目も涼しくみえます。
とはいえ、体力も気力も奪われるような近年の耐え難い夏の暑さ。まだ冷房の恩恵に浴していない昔の情景を思い起こさせるような、懐かしい一刻でした。
そして、先日風流のはじめ館で開催された「夏休みこども俳句教室」を思い出しました。和室には、床に金魚の掛軸、藺草(いぐさ)の座布団、風鈴に団扇、扇子といった夏座敷の句材を配しました。
畳の部屋に入った少年が「懐かしい匂い。じいちゃんちの竹藪のような匂いがする。」といいます。また少女が簾を通して外を眺め「うつくしい」と言い、句に詠みこみました。
その感性に、はっとさせられました。大人になって、失って久しい感覚の一つが、物事に素直に驚くことかもしれません。ことに日本家屋の減少や冷房機器などの普及によって、生活はガラリと変わりました。
ですが、かつての失ってしまった懐かしいものへの気持ちほど、新しいものに心が動かない気がします。得たもの、失ったものをしっかり見届けておきたいと感じたのでした。
打水を腕にまかせてあびにけり 多代女