火曜コラム(紙面掲載 2025年12月2日)

沢田 隆志・はな夫妻


執着

 大学を卒業して製造会社の経理部に勤めていた頃、休日に行った海沿いのセレクトショップで一つのコーヒーカップに目を奪われた。
 特別なブランドではなく、白地に控えめな模様があるだけのどこにでもありそうなカップだった。それでも色味と形のバランスが妙に心に残った。
 正社員として働く独身の財布には余裕があった。それでも私は、そのカップを買うかどうかずいぶん迷った。なぜなら当時暮らしていたのは会社の独身寮で、トイレもキッチンも共同、壁は薄く、隣の住人の鼻をすする音まで聞こえる、まるで独居房のような環境の部屋だった。そんな場所に、洒落たカップなど似合わない気がしたのだ。
 それでも結局、30分ほど悩んだ末に購入した。レジで美人店員さんに「ご自宅用ですか?」と聞かれ、自分の物を買うのにこんなに迷っていたのかと思われているのが嫌で、「プレゼント用です」と答えた。部屋に持ち帰り、綺麗に梱包された箱は開けずにそのまま、南向きの窓辺に置いた。
 翌日、出社すると上司の机に、私の買ったものとほとんど同じカップが置かれていた。その上司は部下の感情の機微を全く感じることの出来ない、今の基準で判断するとパワハラでギリギリアウトになるだろう人物だった。 
 彼がいつからそのカップを使っていたのか知らないが、それを見た瞬間、あれだけ盛り上がっていたカップへの愛情が一気に冷めた。
 あの時なぜあんなに欲しかったのだろう。あれほど迷いようやく手に入れたものが翌日にはどうでもよくなってしまった。
 綺麗にラッピングされたあの箱を開けた記憶もない。どこに行ったのかも覚えていない。誰かにあげたかもしれない。いずれにしても人の執着なんて実はその程度のものなのだろう。
 いま大切だと思い、必死に握りしめている何かも、未来の自分にとっては取るに足らないものになるかもしれない。そう思うと、少し肩の力が抜けて、生きるのが楽になる気がする。

GALATA COFFEE

沢田 隆志・はな夫妻

GALATA COFFEE代表 ウルトラFMパーソナリティ

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