「感情の対義語」
「感情的な人」という言葉が、どこか「未熟な人」を指すかのように使われるのは、少し残念に感じる。
スポーツ界でも、感情、特に怒りを激しく表に出す選手は非難の対象になりがちだ。
プロ野球の乱闘を一つのエンターテイメントとして見て育った世代としては、最近の選手たちにやや物足りなさを覚えることもある。喜怒哀楽を素直に表現する人は、むしろ魅力的ではないだろうか。
辞書を引くと「感情」の対義語は「理性」とされている。怒りや悲しみに流されそうになる自分を、冷静な論理で抑え込む。「熱い感情」と「冷たい理性」という対立構造は、一見すると分かりやすい。
しかし、日々の暮らしの中で湧き上がる心の動きを振り返ってみると、この二つが本当に反対の位置にあるのか、違和感を覚える。
例えば、美しい夕焼けに心を打たれたり、誰かを大切に思ったりする気持ちは、決して理性を欠いた暴走ではない。むしろ、それは自分なりの価値観や、これまでに積み重ねてきた知識や経験から生まれるものだ。
逆にどれほど理路整然と合理的な説明を重ねても、「好きだ」「やってみたい」という感情がなければ、人は前に進めない。感情と理性は対立関係ではなく、一つの車を動かす両輪と考えた方がしっくりくる。
では感情の反対側にあるものは何だろう。そう考えたとき、マザー・テレサの「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」といった主旨の言葉を思い出した。憎しみは非常に激しい感情だが、裏を返せば相手を強く意識している状態でもある。本当に恐ろしいのは、喜びも痛みも何も感じない無関心だ。
理性は感情を抑え込むための手綱ではない。感情を客観視し、面白がり、分析し、理解するために使うものだ。
「このデッドボールは大したダメージではないが、ここは怒りを見せた方が今後の打席で有利になりそうだから乱闘しておこう」そんな理性的な感情をもってプレーする野球選手がいたら、私は大いに応援したい。




